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その人は、許されぬ恋と、望まぬ戦いに身を投じたパヤッパッパラ ~手塚治虫のブッダ~

映画「手塚治虫のブッダ?赤い砂漠よ!美しく?」オフィシャルサイト

 茶化さなければ精神が保てない、とは言い過ぎですが、本日映画館でみた「手塚治虫のブッダ」のコレジャナイ感が強かった、そしてあんまり面白くなかった、という点は主張しておかねばなりますまい。ここまで改変してて手塚治虫ブランドってつけるの? という疑問と、でもキャラクター達は確かに手塚創作のもいるから変えては……というどうでもいい諦観を味わってみたり、複雑な気分です。

 今回はネタバレ満載です。完全に見た人(原作も読んでる人)用ですので、これから見るかどうかの助けにはなりません。ご注意。
 
 手塚治虫については説明不要として、これからのレビューぽいモノを書くにあたり、自分との関わり方を書いておきます。以下は当該映画とはあんまり関係ありません。
 
 ベストオブ手塚:ダスト8、ブッダ
 次点:火の鳥太陽編、大暴走、陽だまりの樹
 その次:ブラック・ジャック アラバスター

 このうちブッダと火の鳥、陽だまりの樹については、実家に豪華本があってそれを繰り返し読んでいました。その他は図書館で読んだりなどしていましたので、もちろん上記作品以外にも好きなものは多いです(ロストワールドとか)。とはいえ読んでいないものも多く、読んで忘れている作品も多々あります。
 その中でもダスト8は非常に好きな作品の一つで、なぜこれが打ち切りという憂き目にあってしまったのか信じられないほどです。
 「飛行機事故が起きた山には、命の源となる石があった。乗り合わせた乗客のうち8人はたまたまその石が接触したことで死ぬ運命から逃れる。奇跡の生還を果たした8人は、その後、奇妙な幼い兄妹と出会った。彼らは言う、『その石を返してください』」
 一件ホラー調のあらすじですが、実際は兄妹の視点で話が進みます。彼らが山の長から石を回収する使命を受け、8人のもとを訪れ、石を回収しようとする話です。
 石を持った人間一人一人にテーマがあたり、もちろん彼らは誰も死にたくありません。その石を手放せば死んでしまうので、返したくありません。そこから生まれる、まさに命を賭した人間ドラマです。最初は18人いたそうですが、個人的には全員やってほしかった。返す返すも、これが打ち切りになったのは残念です。
 
 閑話休題。
 実家が寺(臨済宗)だから、というわけではありませんが、物心ついたときにはすでにブッダが本棚に入っていました。ひだまりの樹もあったので宗教はあまり関係ないと思いますが、そういえば親には特に質したことはなかったなぁ。
 初めて読んだのは小学校のころだと思います。読み返した回数は数え切れないほど。別にブッダだけではなく、あまりマンガを買えなかった小中のころは、家にあるマンガをひたすら読み返していたのですね。だから火の鳥もひだまりの樹もゴルゴ13(3冊くらいでしたが。ダイヤを狙撃する話、ステージ上のヴァイオリンを狙撃する話はよく覚えています。ツェツェバエという蝿はゴルゴで知りました)も、よく読んでいました。
 最後に読んでからすでに5年程度経っており、細部はあやふやになっています。そのため今回、実家に「ブッダ送っておくれ」的事務連絡をしたら「買え」と言われているといった感じ。好きなキャラは、そうだなぁ、アナンダかな。最期が衝撃的だったのはやっぱりタッタですが。
 実のところ王子だったシッダルタとミゲーラが恋愛したっけ?的なうろ覚え具合なので、なんか間違いが無いように身長に書こうと思います。

 さて、今回の「手塚治虫のブッダ」なんですが、手塚治虫の、とつけるほど忠実でないのが実際の所です。原案くらいにした方がよかったんじゃないですか的な。そのオリジナル部分がよければ特に問題ないんですが、改変したうちの二つについて、特に文句を言いたい。とはいえ、それは後にしましょう。
 映画化にあたり、とくにキャラデザインにこだわろうとは思いませんでした。マンガがアニメになって絵柄に違和感が出るのは普通のことですし(描く人が違うんだから当然と言えば当然)手塚の絵は、今そのまま動画にするには、そして成功(ウケ)を狙うなら、忠実に再現するのは一種の危険を伴うと思います。むしろタッタあたりは頑張って面影を残す苦労が伺えました。チャプラが年齢や職業の割に細く見えたくらいで。今回のチャプラ編については十数年時間が経過し、チャプラも二十代の戦士になっているので、もっと筋肉質だったほうが強さに説得力があってもよかったんじゃないかと。重箱の隅ですね。
 そんなわけで絵自体は、多くがイメージを外れていなかったので割とすんなり入りました。シッダルタ以外は。なんか所々教育番組的な色遣いがあったりもしましたが、特に文句を言うほどでもありません。シッダルタ以外は。
 
 シッダルタはあれ、なんなんでしょう。
 ポスターの超絶美形女顔っぷりは表紙詐欺的なモノとして、あの幼少時の妙な目尻はなんなんでしょう。イヤこれはもう俺の好みの問題なのですが。あと青年時たまに見せる「すでに悟っています」みたいな表情はやめていただきたかった。チャプラと対峙したときのあの顔です。直前まで「(戦いを)やめろ! やめろ!」ってどこかで見たような慌て方をしていたのに。無気力な無表情の多いシッダルタですが、別にあれは何もかも見透かしてるわけではないのに。なんかチャプラにも変なこと言わせてるし。ここは後述。

 映画後半のストーリーにも言えることですが、ミゲーラと別れた後のシッダルタは急速に聖性を帯びていくというか、自分の子供が生まれたことも意に介さないし、そもそも出家するのはブラフマンの吹き込みがあったはずなのに、映画ではブラフマンが一瞬しか出てこないので、なんかシッダルタの出家宣言が非常に唐突に出てくるしで「細けぇことは気にするな!」という投げやりっぷりが如実に感じられます。子供に悪魔と名付けた際の恐慌ぶりがシッダルタの特異性(異常性? 感受性と言ってもいいかも)を表していると思うんですが、尺の問題でしょうか。第二部にやるんですかね?
 
 ストーリーは大筋は原作通りです。スードラの少年チャプラはカーストという体制への反抗と失敗。シッダルタは出家に至る四苦との出会い、またカースト制への問いかけから。この映画においてもっとも大きな改変は「チャプラ編とシッダルタ編を平行している」という点です。映画としてはまあ、悪くない妥当な選択です。が、同時代にする必要は果たしてあったんでしょうか。
 
 そう、この映画、チャプラの生きた時代とシッダルタの生きる時代がかなり重なっています。原作では先にチャプラの時代があり、一区切りついた後にシッダルタの物語が始まります。
 この改変で、激烈な不満点が二点。
 シッダルタとチャプラが戦場で邂逅する、という一点。
 タッタが成長しない、という一点。
 細々とした不満はありますが、この二つで全部かすんでしまうくらい意味不明な二点です。なにを思いついてしまったんでしょう。

 シッダルタとチャプラが戦場で出会ってしまう。
 この点については……正直な話、同時代でしかも戦争を仕掛けるのであれば、また娯楽映画として山場を作るなら選択肢に入って当然でしょう。むしろこの場面を入れるのと、二人の時代を同一にすることで、視点がどんどん入れ替わる物語構成をわかりやすくしたのだ、という気がします。
 ですが、ここで二人が出会ったことによって起きた悲劇が一つあります。
 チャプラがシッダルタを見て「なんて澄んだ目をしてるんだ。心が見透かされてるようだ」的な事をモノローグで言ってしまうんです。
 このとき、シッダルタは悟りを開くどころか出家もしておらず、悩みを抱えた青い少年です。これから悩みに悩み、苦行やアッサジとの旅を経て、ようやくある種の聖性を帯びるようになります。まだまだ苦しみに満ちた世界に対し疑問を発し始めた段階でこのような演出をしてしまっては、なにやらシッダルタが生まれながらにして神(仏)である、という印象を抱いてしまう。予言者や動物たちの演出などにより、そういった描写はたしかにあるのですが、それはシッダルタが生まれた無垢の状態にあった時分のもので、この少年、青年時の多感なシッダルタにこんな聖性を加える理由がわかりかねる。
 ちなみにこの際、同じくしてチャプラのテーマも崩れます。彼がシッダルタと出会った影響があとに全くないのは投げっぱなしジャーマンでしかない。第一部の主人公として、カーストに真っ向から対立するはずのチャプラがただの引き立て役に成り下がっています。
 バンダカの毒矢演出も妙でして、「矢が刺さったはずなのに」と言わせています。毒が効くまでにタイムラグがあったのでしょうが、よりにもよって上記モノローグの直後にチャプラが血を吐いて倒れます。敵の将軍が王子と相対した途端に倒れる、という演出は本当にまったく影響を与えず、この場面で終了です。入れた意味がまったくわからん。
 
 それぞれのストーリー単体では最低限の要求を満たしているのに、ここでぶちこわしです。というか前述したとおり、このシーンのシッダルタは、戦争を止めようとあわてふためいていたはずが、チャプラとあった瞬間だけいきなり悟ったような物静かなたたずまいで、それが終わったあとはまた混乱しているように見える。
 悟りシッダルタはチャプラの幻想だ、という無理矢理な解釈を加える事も出来ますが、それも後のストーリーにまったく影響しないので意味がありません。そもそもチャプラの役割としてはシッダルタの聖性をかいま見る必要はなく、本当に視聴者サービスというか、盛り上げ演出以上の意図が読み取れない。入れる必要あったんですかここ。


 そしてまた、二人の時代が同じになったことでタッタにも悲劇が起きます。チャプラがコーサラの将軍になるまで、なんと作中では15年の月日が流れるのです。にも関わらずタッタは少年の姿のまま! 演出ミスじゃないかというレベルですが、これについての話は風の噂くらいしか知りません。曰く、映画独自の設定として「タッタは動物に乗り移る能力がある限り歳を取らない」というものです。資料を探しているんですが、まだ見つかりません。ので余り追求するのもアレですが、逆じゃないかと。タッタは歳を取ったので動物に乗り移る能力を無くしてしまったんじゃないかと。
 このため、本来は髭モジャの大男に成長してシッダルタと出会うはずのタッタは、シッダルタが出家した段階でも子供のままです。だからシッダルタに世俗案内をするのはミゲーラ一人に任され、結局第一部終了時でもシッダルタとタッタに面識がありません。

 これ、タッタはどうなるんでしょうか。もしかして能力が無くなった瞬間ニョキニョキと大人になるんでしょうか。ミゲーラと結婚しないのでしょうか。

 細かい不安を挙げていけばきりがありませんし、原作との対比をむやみにおこなってもなんなので、どうしても言及したかった、ストーリーの根底に関わる三点に絞ってみました。重箱の隅をつつけば、チャプラを助ける際に獣たちをつかうことを提案したのがタッタになっていたり(どうしてナラダッタに罰を加えるんでしょう。止めなかったから?)、チャプラがスードラであることが発覚したことへのマリッカ姫の反応がなかったり(フェードアウトしてるし)、ダイバダッダは生まれるの? といったりまさか二部もこの声なの? という疑問点は多々あります。が、とりあえず二部がある、三部がある、ということなので、これらの疑問は解決されるかもしれません。とりあえずこれだけを書いて終わりにします。

 もう一つどうしても付け加えたいのは、やたら挿入される妙な宗教じみた演出。ブッダは確かに宗教の話なのですが、ブッダがどれだけ素晴らしい人間か、ということよりも、ブッダがどのように生きたか、ということに焦点をあてた作品です。生まれたときに動物たちが集まってくる際のカメラワーク、ブラフマンが光に包まれている、戦場でのシッダルタが悟っている、というような演出は、ともすれば余計なイメージを生んでしまう畏れがありませんか?

 ここからは完全に個人の好みです。
 手塚治虫の、とつけるのであれば、固有名詞くらいは手塚準拠にしていただきたかった。シッダールタやシュードラといった呼称ですね。違和感を覚えるのは本当に俺の好みですので、これ以上は書きません。

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