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Eee Pad Transformerに至るまでのワタクシと携帯文章入力ガジェット達の思ひ出

 念願のEee pad transformer(以下TF101)を購入することが出来たので、発売日の25日から散々いじり倒しております。
 実は去年からいろいろ探しておりまして、家だとなかなかはかどらない小説の執筆を外で行うために適した端末、という条件を満たしているのがなかなかなかったんですね。

 この外で、というのがポイントで、どこかのカフェあたりでおもむろにネットブックを取り出すのはもちろん、電車の中で買いたい文章の推敲したり、出先でさっと広げてパッと書き、またスッとしまう(ガジェット系レビューに頻発する言い回し)という動きを求めてやまなかったのです。


 この条件に照らした場合、ネットブックはかなり危ういわけで、まずバッテリの問題。ネットブックではせいぜい長く見て4時間程度(下手すると2時間)が限界でありまして、しかも電車でどかっと広げると異様なことこのうえなく(勇気が必要)、一度スリープに入ると再起動まで一分程度はかかってしまうという微妙なストレス発生源になります。熱くなるしね。重箱の隅を突いているようですが、もって歩くとなると、その脆弱さも含めて気が休まらないのが本音。そういうわけで、ネットブックは持って行くにしても徒歩圏内、満員の可能性のある電車なんぞなにをかいわんや、といった案配でした。あとタッチパッドはワタクシどうしても慣れない。

 俺が持っているほかの入力端末といえば、QWERTYキーボードのついたHT-01Aです。初めて手にしたスマートフォンで、これはWindows Mobileのものですね。
f:id:Hoshino_Bofura:20081108214054j:image:medium
 電車で「立っているときに」入力できるのがこれの魅力です。手の平サイズですから。半面、どうしてもキーボード自体は小さくなってしまい、親指の太めな俺にとっては誤入力の温床。入力スピードも実測地で五分の一と本当にカタツムリ的スピードで、ぶっちゃけ手で書いたほうが早いのではないかという微妙ぷり。もともと「小説を書く」というのは想定されていないので当たり前といえば当たり前ですな。あと中黒とそれに連なる三点リーダがなぜか入力できなかったのも痛い。通勤時間にポチポチ書いて、帰ってPCにするりと移行、というのを目論んでいたのですが、どうにもうまくできず、移したテキストをちまちま修正するよりも入力した画面を見ながら改めて打ち直したほうが速いという意味の無さ。ぶっちゃけなくても手で書いたほうが早かった。このHTー01AはのちにiphoneへとMNPされます。半年くらいで。


 次のガジェットはiphoneでした。
f:id:Hoshino_Bofura:20090609120616j:image:medium
使っていたipodが壊れ、知り合いの持っていたものを触らせてもらい、あまりの快適さに気づけば買っていた代物です。実のところHTー01Aのもたつきといったら半端でなく、ブラウザはロクにブラウズできず、ソリティアはよくカードが暴走し、感じんの文字入力はキーを押したらワンテンポ遅れるといった有様で、携帯入力端末については絶望していたころにであったこのサクサク感といったら、体感で三世代くらいは先んじていたといっても過言ではありません。このあたり、今でも追いつかれておらず、さすがappleと言えましょう。実際今も使っています。

 肝心の文字入力ですが、フリック入力という全く未知の入力方を採用したにしては以外と書きやすかった、というのが本音です。どちらかというとフリック入力そのものより、レスポンスの快適さが大きかったように思える。フリック入力の良さを言葉で表すのは難しいのですが(まわりには苦手な人しかいなかったし)長文を書くのもあまり苦ではありませんでした。

 しかしiphoneには決定的な弱点がありまして、入力は快適でも、そのあとが茨の道だったのです。
 一つ目の弱点は漢字変換。漢字変換が非常に頭悪く、「いったいこんな漢字の組み合わせをどこから拾ってきたのだろう」という唖然とした結果をだしてくれることがままあります。またケータイに憑き物(誤変換にあらず)の予測変換というシステムのおかげで、三文字入力したはずが十文字に変換された、ということがざらです。そのあとがさらに厳しく、間違った入力は当然削除するわけですが、たとえば

「この誤変換を削除したい」を
「このご変換を削除したい」と間違えたとします。割とよくある。

 この時にまずすることは「ご」の後ろにカーソルを持って行くことなんですが、iphoneはそれが異常に難しい。指の腹でポイントするタッチパネルはただでさえ大味で、下手に動かすと行き過ぎたり、慎重にジリジリ動かしてると逆に動かなかったりと、なんの苦行だと叫びたくなる始末。わかりやすいのが台詞の入力時で、iphoneで「」を入力する場合、入力方方の関係で一気に「」と入力するわけですが、そのあと、「」の間にカーソルを持って行くのがやたらと難しい。電車の中などで揺れていたりすると、まさに針の穴に糸を通すレベルです。長文の入力はわりといけますが、小説の入力としては残念ながら及第点はあげられないレベル。さらにiphoneはもともと外でのブラウジングやtwitter端末、また壊れたipodの変わりといった用途もあるので、電池消費が非常に心配だったのもありました。残念ながら、iphone一台でなんとかならなかった。

 そういうわけで、携帯用文章入力端末を探して探して約一年です。この間に出た端末としてはポメラ、SH-03B、Fー04B、SH-10B、N-08B、Life Touch Noteなどがあげられます。ネットブックは新しく購入するくらいなら今のものを使うのでことごとくスルーでした。ノートPCは高すぎるのでやはりスルー。

 ポメラ。
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 これは結構核心をついた商品でして、そもそも文章書きのための端末、という点が非常にベネ。余計な機能は全部省き、男らしく画面はモノクロ、乾電池で動くのでいざとなればコンビニで安価に補給可能、といった割り切りかたが非常によい端末でした。まあ買わなかったんですが。
 買わなかった理由はキーボードにありました。打ちづらい。折り畳み式の頼りないフレームに、叩く度にパキパキと音を立てるキーは、微妙な小ささも相まって非常に打ちづらく、機能のわりに高めな値段と相まって購入意欲が驚くほど減少。ローテンションなまま日数は進み、上位モデルの存在に気づいたときには興味をなくしてしまっておりました(上位モデルのキーボードは結構よかった)Atok導入など、本当に一歩足りなかった惜しいガジェットでした。キーボードの好みが結構偏屈なのに気づいた時期でもあります。

 SH-03Bはdocomoのガラケー端末です。
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 ガラケーといえどQWERTYキーボードを採用しており、これ一台でケータイも文章入力も任せろ的な端末。一年前のSH-04Aの後継モデルですね。持ち歩く端末が増えない、というのは多少魅力的でして、これだけで通信ができるためバックアップも可能とズルリと惹かれたものです。しかし職業上docomoの端末は触り放題でして、心行くまで触った結果、この形状は「ほかのガラケー機能と非常に相性が悪い」という結論に達しました。というより、ガラケーにはテンキーがついていないとお話にならない。またこのあたりのガラケーは高機能に処理が追いついていないのか、ボタンを押したら一秒待って反映、というのが常識でして、いくらQWERTYが着いていても長文は望むべくもなく、結局これも購入せぬまま終わりました。

 ですが、やはりケータイと文字入力端末が一つなのはよい。というわけで次に目を付けたのがF-04Bです。
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 これはセパレートケータイというガジェットオタク垂涎の変わり種で、キー部分と画面部分が二つに別れるというなんとも面妖な誰得端末です。ほんとどういう需要があるのか今もわかりません。
 この端末の素晴らしい部分は、SHー03Bが抱えていた問題の一つを解消したことにあります。そう、テンキーが着いてるんですね。テンキーとQWERTYキーボードを同時装備というこれまた誰得なギミックでほとんど出落ちの領域ですがインパクトはあった。
 これも結局買っておりませんが、その理由は「QWERTYキーボードを使おうとするとディスプレイ部をセパレートしなければならない」という本末転倒なもの。電車の中で立って入力ができないんですね。ディスプレイ部を置かなければ利用できない。またどちらかなくすと全損扱いになるのも無用なストレスを招きそうだったので、高めの値段も相まって見送ることに。

 次のSHー10Bはある種本命でした。
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 docomoのスマートフォンで、クラムシェルタイプ(メガネケースのような形)で、5インチの大画面にタッチパネル、しかもQWERTYキーボード次と、携帯端末としてはかなりPCに近い。触ったところキーボードの打鍵感も悪くなく、その時docomoがiモードメールに対応していたら買っていた可能性が非常に高かったほど需要にマッチしていた端末でありました。
そう、このとき、まだspモードが始まってなかったんですね。これは「docomoのスマートフォンでは@docomo.ne.jpのアドレスが使えない」ことを意味します。実際はiモード.netといオプションサービスでどうにかなったのですが、ほんとうに「どうにかなる」というレベルで、維持するのにiモード端末が必要だったりオプション料金がかかったりと非常に面倒臭い。しかもspモードが始まったと同時に端末代金割引キャンペーンが終了したりと「売る気あんのか」と突っ込みたくなる始末。結局最終的に五万円を超えた端末はスルーするのでした。

 もう一つの夏の本命といえばN-08Bです。
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 ガラケーでありながらノートPCの形! クラムシェルなんて中途半端だぜ、ここはもう「まんま」しかねぇ! と言わんばかりの長財布形式。表面の加工も相まって完全に長財布なその形状と、ケータイというには大きすぎる男らしさ。しかも通話するにはその財布を開いた上で耳に当てなければいけないという、まさにモノノフ専用端末。おかげでキーボードはSHー10Bよりも大きく、さらにiモードメールも使えるという夢のようなような端末でした。ハード面でいえば文句なしです。ハード面では。イヤホンマイクつければ通話はなんとかなるし。
 問題はソフト面で、いままでも何度か出てきましたが、ガラケーは動作が異常に遅いんですね。もうやってられないレベルで入力遅延がおこります。とくにこのころのNEC端末はそれが顕著で、心をときめかせながらデモ機を触ったワタクシの純粋な心は二重秒で打ち壊されました。しかもハード面で頑張りすぎせいか、ガラケーとしての能力も皆無に等しく、もはやなにがしたいのかわからない端末に成り果てておりました。しかもバイブレーションがついていない。とどめとばかりに値段は6万超で買う買わない以前にモノとしてどうよ、というアレですよ。ホント。

 それから半年ほどは、頑張ってネットブックをぽちぽちしていました。キーボードがありえないほど小さいのを抜きにすれば、やっぱり入力形式としては一番よいものです。これはTF101を買ったいまだからこそ実感しているのですが、入力がメインであるデスクトップとほとんど同じ、というのは非常に強い。ファイル互換も同じWindowsなのでまったく問題なく、いっそのことノートPC買えば問題は解決してしまうのではないか、というネズミの嫁入り的結論に達しつつあったのが2010年冬です。このころ、外での誤変換チェックや推敲用にSony Readerを購入しています。今も現役でE-inkの恩恵にあずかっています。

 Life Touch NOTE。
f:id:Hoshino_Bofura:20110629201648j:image:medium
 スペルがあっているかわかりませんが、これはビビッときた端末でしたね。ノートPCライクなAndroidスマートブックってところで、いままでケータイOSとして成長してきたAndoroidがどのようにノートPCに近づくのだろうと、またクラウド環境あってこそのAndoroidという話はきいておりまして、どのようなファイル共有方法で俺のニーズを満たしてくれるだろうと楽しみに発売を待っていました。
 その結果。
 発売日に電気屋で触ってみたところ、重い。重量的な意味で。
サイズのわりに中身が詰まってるのか片手で物のが一苦労といったところ。うーん、これならいまのネットブックとあんまりかわんねぇなぁ、といったいたってつまらない感想でLife Touch NOTEの検討は終了しました。ネットブックの変わりに使うには少なくとも電車内での使用に違和感がないのがいい。twitterのフォロワーで一人購入者がいたので、その人の感想を聞いてみたいところです。

こうして一年、かずかずの端末を見つづけてはとてもワガママにスルーしてきた私の前にやっと現れたのが、そう、このTF101なのです! 以下次号!!

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え? マジで?

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スパイという職業 ~スパイのためのハンドブック~

 漠然と知りうるスパイの仕事としては「敵性国家(ないし組織)に侵入し、機密レベルの情報を盗み出す」という程度でして、そうでなければ「物理的破壊工作を行い陰謀を食い止める」というようなものです。実際の所、スパイの仕事は前者がほとんどで、ジェームズ・ボンドに代表されるような後者のスパイはほとんどいないそうな(ボンドにはモデルになった人がいるそうですが)
 企業スパイなんかも本質的には同じでしょうが、それではスパイって具体的にはなにをしてるの? と仲間内で話したりしてると、やっぱり映画の話になったりなんかする。もちろん秘密にまみれた仕事なので、そうそう外部に流出はしないもののはずですな。なんにせよ、その仕事に関しては多くが伏せられているのがスパイです。通常は知りようもないし、簡単に知れたら困るはず。

 という考えは古いのか、もしくは「一般人知ったところで干渉できないし、どうせ敵対勢力は知り尽くしてるし構わないんじゃないか」という考えだったのかはわかりませんが、実在したスパイの人が、スパイになるためのノウハウを記した本が



『スパイのためのハンドブック』です。

 ハヤカワノンフィクション文庫は俺的ストライクなテーマの本が多く、買った本を挙げていくと「人類が消えた世界」「悪霊にさいなまれる世界」「神話の力」「つかぬことをうかがいますが…」「図書館ねこデューイ」などなど、タイトル買い人間のワタシ大歓喜! もはやどれも欲しいが予算が足りない、迷う、というレベルのレーベルです。シャレじゃねえよ!
 ノンフィクションと言うだけあって、ノンフィクションであればとりあえずなんでも、というスタンスなのかは知りませんが、科学、歴史、伝記と非常に幅が広いレーベルです。いわゆるオカルトやニセ科学についても言及しているものがあり「なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか」なんかは次に読もうと思ったり。



 
 さて。
 世の中にハウツー本は多々あれど、またスパイに関して書かれた本は多々あれど、「How to be スパイ」となると非常に珍しいのではないかと思われます。そしてまた、多くのハウツー本がテーマとなる職業について具体的な仕事の数々を紹介しているように、この「スパイのためのハンドブック」もまた、スパイが行う諜報活動をある程度まで明かしてあります。それどころか「どうすればスパイになれるのか」「スパイとしての適正が読者に備わっているのか」といった事まで言及してあります。

 これがどのあたりまで信用できるかについては、その他のハウツー本がどれだけ信じられるか(どれだけその職業の真実を教えているか)で比べるのもよいでしょうし「もし本当に核心まで書いているのであれば情報部が出版を許すはずがない! これは実際の仕事から我々の興味をそらすための罠だ!」という陰謀論的観点から読んでみるのも面白いです。

 なにせ作者ウォルフガング・ロッツは、まえがきによると引退後(?)メディアに多々名前が露出したほど有名なスパイであるとのことで(ワタクシの貴重な情報源であるWikipediaにも記事がある)、「専門家なにがし」「元スパイなにがし」というどこぞの馬の骨とはワケが違う。正真正銘の元スパイが実際の体験談を交えながらスパイの講釈を行うのですから、内容の「それらしさ」といったらありません。微に入り細に入り丁寧に書かれてあります。

 まず前書きが終わった後の第一章が「あなたのスパイ能力をテストする」ですから、なんか「スパイっぽい!」という気持ちが溢れかえるのが理解していただけると思います。実際に行われるのはマークチェック式ペーパーテストですが、採点を行い、どれほどスパイに向いているかというのがわかるようになっています。その後は問いの意図を一つ一つ解説していくのですが、このときに明かされる「スパイに必要な要素」というものが、ある程度予想がついていたり、または解説されて「なるほど」と思うものもあったりで、おそらく誰が読んでもどこかに意外な箇所があると思います。「この答えがスパイっぽいかな」と考えて選んだものが低得点だったり。

 その後はスパイが実際に携わる仕事の紹介が始まりますが、まずなんといっても気になるのは第二章の「スパイはどこからやってくるか?」でしょう! スパイ組織、すなわち秘密情報部(または諜報部)に就職するための手順が書かれてあるのです! ワクワクが止まりませんね!
 実のところ、ここで紹介されている就職活動は十分にスパイっぽく、通常の就活とはまったく異なります。己の才覚を駆使し、運を味方につけなければ面接も叶わぬ職業がスパイなのです。詳細は本文で。
 ちなみに作者のロッツ氏は軍部所属で、その縁だとのことです。

 この本の丁寧なところは、行うべき手順を箇条書きにしている所ではないでしょうか。箇条書きがこれほどわかりやすく、また楽しいものであると思えたのは、この本が初めてのような気がします。一つ一つの項目は単純ながら、そこに含まれる思わぬ注意点、なぜそういった動きが必要なのかといったフォローも含め、例えば他人になりすます方法については七つの手順で説明がなされています。
 ここがまたうまい点で、作者は「今から始められるスパイの特訓」みたいな、近所でやってみましょう的な練習方法を紹介しています。上記の「他人になりすます」方法については、当面の目標を「まったく知らない人と(設定した職業に関しての)仕事の契約を約束する」段階までもっていくこととしています(実際には契約せず、次に会ったときと約束してブッチする)。
 その他にも他人をストーキングしてみるといった法に触れそうな危ない(しかしココロオドル)尾行方法、情報の入手の仕方などが懇切丁寧に書かれてあり、むしろこれスパイというより犯罪幇助的にどうなの、みたいな冗談じみた感想が浮かんでくる始末。まあスパイには時として犯罪をおかす勇気が必要と作者も言っていますが。また尾行の方法については気取られそうになったらさっさと諦めて違う人にターゲットを変更しなさい、とも書かれてあるのでセーフでしょうか。

 ボンドガールに代表される「異性問題」についても深く取り上げています。ロッツ氏はスパイ活動の真っ最中に結婚したという例外中の例外だそうですが、一般的なスパイがどれだけ異性に悩んでいるか、またハニートラップに神経質になっているかを教えてくれます。ハニートラップへの対処方法なんかも書かれてたりするので、企業で社外秘の情報を扱っている人は是非どうぞ!

 そのほか、スパイの給料や経費の落とし方、逮捕されたときの処方、また余生の過ごし方など、普通のハウツー本でも触れられない(笑)箇所まで、まさにゆりかごから墓場までといった勢いです。彼は相当の大スパイだったららしく、所々で自慢話が頻出しますが(そのくらいでないと箔がつかないのも事実)昔話は大抵が面白く、そして主に具体的なスパイの仕事についてはこの昔話のなかに登場します。昔話によって仕事の紹介を、そしてそれらの訓練方法を、といった作りですね。実際のところ、翻訳のせいでしょうが会話が非常にウィットに富んでいたり(原文もこんなニュアンスなんでしょうか)といった部分で創作性を懸念しますが、そのあたりは小さな問題、と言い切ってしまえるほどにエンターテインメントな本です。

 それにウォルフガング・ロッツは本文内で「スパイの人生の大部分はウソで作られている」と言っております。もちろん大スパイであったロッツ氏は天才的な嘘つきだったはずで、テクニックの一つとして「大きなウソに小さな真実を」を紹介しております。すなわちこの本で真実の部分はほんの少しで、全てがウソである「可能性がある」と宣言されているに等しい。これが真実か、それとも大スパイの余興で書かれたフィクションなのか、本当の所を調べてみるのも楽しそうです。それこそスパイになったつもりで!


 追伸:日本での初版が1982年と、とても古い本であることを知りました。ウォルフガング・ロッツもすでに他界されており、今の情報時代にはそぐわぬ部分があるかも知れません。ネット関連にはまったく触れられておらず、もしこの人がスパイ活動においてネットに言及していたらどうなっていたかと考えると、やはり胸が躍りますね。

その人は、許されぬ恋と、望まぬ戦いに身を投じたパヤッパッパラ ~手塚治虫のブッダ~

映画「手塚治虫のブッダ?赤い砂漠よ!美しく?」オフィシャルサイト

 茶化さなければ精神が保てない、とは言い過ぎですが、本日映画館でみた「手塚治虫のブッダ」のコレジャナイ感が強かった、そしてあんまり面白くなかった、という点は主張しておかねばなりますまい。ここまで改変してて手塚治虫ブランドってつけるの? という疑問と、でもキャラクター達は確かに手塚創作のもいるから変えては……というどうでもいい諦観を味わってみたり、複雑な気分です。

 今回はネタバレ満載です。完全に見た人(原作も読んでる人)用ですので、これから見るかどうかの助けにはなりません。ご注意。
 
 手塚治虫については説明不要として、これからのレビューぽいモノを書くにあたり、自分との関わり方を書いておきます。以下は当該映画とはあんまり関係ありません。
 
 ベストオブ手塚:ダスト8、ブッダ
 次点:火の鳥太陽編、大暴走、陽だまりの樹
 その次:ブラック・ジャック アラバスター

 このうちブッダと火の鳥、陽だまりの樹については、実家に豪華本があってそれを繰り返し読んでいました。その他は図書館で読んだりなどしていましたので、もちろん上記作品以外にも好きなものは多いです(ロストワールドとか)。とはいえ読んでいないものも多く、読んで忘れている作品も多々あります。
 その中でもダスト8は非常に好きな作品の一つで、なぜこれが打ち切りという憂き目にあってしまったのか信じられないほどです。
 「飛行機事故が起きた山には、命の源となる石があった。乗り合わせた乗客のうち8人はたまたまその石が接触したことで死ぬ運命から逃れる。奇跡の生還を果たした8人は、その後、奇妙な幼い兄妹と出会った。彼らは言う、『その石を返してください』」
 一件ホラー調のあらすじですが、実際は兄妹の視点で話が進みます。彼らが山の長から石を回収する使命を受け、8人のもとを訪れ、石を回収しようとする話です。
 石を持った人間一人一人にテーマがあたり、もちろん彼らは誰も死にたくありません。その石を手放せば死んでしまうので、返したくありません。そこから生まれる、まさに命を賭した人間ドラマです。最初は18人いたそうですが、個人的には全員やってほしかった。返す返すも、これが打ち切りになったのは残念です。
 
 閑話休題。
 実家が寺(臨済宗)だから、というわけではありませんが、物心ついたときにはすでにブッダが本棚に入っていました。ひだまりの樹もあったので宗教はあまり関係ないと思いますが、そういえば親には特に質したことはなかったなぁ。
 初めて読んだのは小学校のころだと思います。読み返した回数は数え切れないほど。別にブッダだけではなく、あまりマンガを買えなかった小中のころは、家にあるマンガをひたすら読み返していたのですね。だから火の鳥もひだまりの樹もゴルゴ13(3冊くらいでしたが。ダイヤを狙撃する話、ステージ上のヴァイオリンを狙撃する話はよく覚えています。ツェツェバエという蝿はゴルゴで知りました)も、よく読んでいました。
 最後に読んでからすでに5年程度経っており、細部はあやふやになっています。そのため今回、実家に「ブッダ送っておくれ」的事務連絡をしたら「買え」と言われているといった感じ。好きなキャラは、そうだなぁ、アナンダかな。最期が衝撃的だったのはやっぱりタッタですが。
 実のところ王子だったシッダルタとミゲーラが恋愛したっけ?的なうろ覚え具合なので、なんか間違いが無いように身長に書こうと思います。

 さて、今回の「手塚治虫のブッダ」なんですが、手塚治虫の、とつけるほど忠実でないのが実際の所です。原案くらいにした方がよかったんじゃないですか的な。そのオリジナル部分がよければ特に問題ないんですが、改変したうちの二つについて、特に文句を言いたい。とはいえ、それは後にしましょう。
 映画化にあたり、とくにキャラデザインにこだわろうとは思いませんでした。マンガがアニメになって絵柄に違和感が出るのは普通のことですし(描く人が違うんだから当然と言えば当然)手塚の絵は、今そのまま動画にするには、そして成功(ウケ)を狙うなら、忠実に再現するのは一種の危険を伴うと思います。むしろタッタあたりは頑張って面影を残す苦労が伺えました。チャプラが年齢や職業の割に細く見えたくらいで。今回のチャプラ編については十数年時間が経過し、チャプラも二十代の戦士になっているので、もっと筋肉質だったほうが強さに説得力があってもよかったんじゃないかと。重箱の隅ですね。
 そんなわけで絵自体は、多くがイメージを外れていなかったので割とすんなり入りました。シッダルタ以外は。なんか所々教育番組的な色遣いがあったりもしましたが、特に文句を言うほどでもありません。シッダルタ以外は。
 
 シッダルタはあれ、なんなんでしょう。
 ポスターの超絶美形女顔っぷりは表紙詐欺的なモノとして、あの幼少時の妙な目尻はなんなんでしょう。イヤこれはもう俺の好みの問題なのですが。あと青年時たまに見せる「すでに悟っています」みたいな表情はやめていただきたかった。チャプラと対峙したときのあの顔です。直前まで「(戦いを)やめろ! やめろ!」ってどこかで見たような慌て方をしていたのに。無気力な無表情の多いシッダルタですが、別にあれは何もかも見透かしてるわけではないのに。なんかチャプラにも変なこと言わせてるし。ここは後述。

 映画後半のストーリーにも言えることですが、ミゲーラと別れた後のシッダルタは急速に聖性を帯びていくというか、自分の子供が生まれたことも意に介さないし、そもそも出家するのはブラフマンの吹き込みがあったはずなのに、映画ではブラフマンが一瞬しか出てこないので、なんかシッダルタの出家宣言が非常に唐突に出てくるしで「細けぇことは気にするな!」という投げやりっぷりが如実に感じられます。子供に悪魔と名付けた際の恐慌ぶりがシッダルタの特異性(異常性? 感受性と言ってもいいかも)を表していると思うんですが、尺の問題でしょうか。第二部にやるんですかね?
 
 ストーリーは大筋は原作通りです。スードラの少年チャプラはカーストという体制への反抗と失敗。シッダルタは出家に至る四苦との出会い、またカースト制への問いかけから。この映画においてもっとも大きな改変は「チャプラ編とシッダルタ編を平行している」という点です。映画としてはまあ、悪くない妥当な選択です。が、同時代にする必要は果たしてあったんでしょうか。
 
 そう、この映画、チャプラの生きた時代とシッダルタの生きる時代がかなり重なっています。原作では先にチャプラの時代があり、一区切りついた後にシッダルタの物語が始まります。
 この改変で、激烈な不満点が二点。
 シッダルタとチャプラが戦場で邂逅する、という一点。
 タッタが成長しない、という一点。
 細々とした不満はありますが、この二つで全部かすんでしまうくらい意味不明な二点です。なにを思いついてしまったんでしょう。

 シッダルタとチャプラが戦場で出会ってしまう。
 この点については……正直な話、同時代でしかも戦争を仕掛けるのであれば、また娯楽映画として山場を作るなら選択肢に入って当然でしょう。むしろこの場面を入れるのと、二人の時代を同一にすることで、視点がどんどん入れ替わる物語構成をわかりやすくしたのだ、という気がします。
 ですが、ここで二人が出会ったことによって起きた悲劇が一つあります。
 チャプラがシッダルタを見て「なんて澄んだ目をしてるんだ。心が見透かされてるようだ」的な事をモノローグで言ってしまうんです。
 このとき、シッダルタは悟りを開くどころか出家もしておらず、悩みを抱えた青い少年です。これから悩みに悩み、苦行やアッサジとの旅を経て、ようやくある種の聖性を帯びるようになります。まだまだ苦しみに満ちた世界に対し疑問を発し始めた段階でこのような演出をしてしまっては、なにやらシッダルタが生まれながらにして神(仏)である、という印象を抱いてしまう。予言者や動物たちの演出などにより、そういった描写はたしかにあるのですが、それはシッダルタが生まれた無垢の状態にあった時分のもので、この少年、青年時の多感なシッダルタにこんな聖性を加える理由がわかりかねる。
 ちなみにこの際、同じくしてチャプラのテーマも崩れます。彼がシッダルタと出会った影響があとに全くないのは投げっぱなしジャーマンでしかない。第一部の主人公として、カーストに真っ向から対立するはずのチャプラがただの引き立て役に成り下がっています。
 バンダカの毒矢演出も妙でして、「矢が刺さったはずなのに」と言わせています。毒が効くまでにタイムラグがあったのでしょうが、よりにもよって上記モノローグの直後にチャプラが血を吐いて倒れます。敵の将軍が王子と相対した途端に倒れる、という演出は本当にまったく影響を与えず、この場面で終了です。入れた意味がまったくわからん。
 
 それぞれのストーリー単体では最低限の要求を満たしているのに、ここでぶちこわしです。というか前述したとおり、このシーンのシッダルタは、戦争を止めようとあわてふためいていたはずが、チャプラとあった瞬間だけいきなり悟ったような物静かなたたずまいで、それが終わったあとはまた混乱しているように見える。
 悟りシッダルタはチャプラの幻想だ、という無理矢理な解釈を加える事も出来ますが、それも後のストーリーにまったく影響しないので意味がありません。そもそもチャプラの役割としてはシッダルタの聖性をかいま見る必要はなく、本当に視聴者サービスというか、盛り上げ演出以上の意図が読み取れない。入れる必要あったんですかここ。


 そしてまた、二人の時代が同じになったことでタッタにも悲劇が起きます。チャプラがコーサラの将軍になるまで、なんと作中では15年の月日が流れるのです。にも関わらずタッタは少年の姿のまま! 演出ミスじゃないかというレベルですが、これについての話は風の噂くらいしか知りません。曰く、映画独自の設定として「タッタは動物に乗り移る能力がある限り歳を取らない」というものです。資料を探しているんですが、まだ見つかりません。ので余り追求するのもアレですが、逆じゃないかと。タッタは歳を取ったので動物に乗り移る能力を無くしてしまったんじゃないかと。
 このため、本来は髭モジャの大男に成長してシッダルタと出会うはずのタッタは、シッダルタが出家した段階でも子供のままです。だからシッダルタに世俗案内をするのはミゲーラ一人に任され、結局第一部終了時でもシッダルタとタッタに面識がありません。

 これ、タッタはどうなるんでしょうか。もしかして能力が無くなった瞬間ニョキニョキと大人になるんでしょうか。ミゲーラと結婚しないのでしょうか。

 細かい不安を挙げていけばきりがありませんし、原作との対比をむやみにおこなってもなんなので、どうしても言及したかった、ストーリーの根底に関わる三点に絞ってみました。重箱の隅をつつけば、チャプラを助ける際に獣たちをつかうことを提案したのがタッタになっていたり(どうしてナラダッタに罰を加えるんでしょう。止めなかったから?)、チャプラがスードラであることが発覚したことへのマリッカ姫の反応がなかったり(フェードアウトしてるし)、ダイバダッダは生まれるの? といったりまさか二部もこの声なの? という疑問点は多々あります。が、とりあえず二部がある、三部がある、ということなので、これらの疑問は解決されるかもしれません。とりあえずこれだけを書いて終わりにします。

 もう一つどうしても付け加えたいのは、やたら挿入される妙な宗教じみた演出。ブッダは確かに宗教の話なのですが、ブッダがどれだけ素晴らしい人間か、ということよりも、ブッダがどのように生きたか、ということに焦点をあてた作品です。生まれたときに動物たちが集まってくる際のカメラワーク、ブラフマンが光に包まれている、戦場でのシッダルタが悟っている、というような演出は、ともすれば余計なイメージを生んでしまう畏れがありませんか?

 ここからは完全に個人の好みです。
 手塚治虫の、とつけるのであれば、固有名詞くらいは手塚準拠にしていただきたかった。シッダールタやシュードラといった呼称ですね。違和感を覚えるのは本当に俺の好みですので、これ以上は書きません。

プロフィール

星野ボウフラ/初緑

Author:星野ボウフラ/初緑
いろんなモノを目指しすぎて何をすればいいのかわかりません。とりあえず今やらなきゃいけないことを全部ほっぽり出して寝ます。

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